歴史を知る


被爆前の広島と建物疎開

 被爆当時、鶴見橋の西側では動員学徒や義勇隊の人びとが、焼夷弾などによる延焼を防ぐため、建物疎開作業に従事していました。

 

 人類史上最初の原爆投下により、この作業に動員されていた多くの人びとが犠牲になりました。


 鶴見橋は木造だったため、原爆の強烈な熱線により欄干などに着火しましたが、すぐ消し止められ、比治山橋と共に市内から多くの被災者がこの橋を渡って比治山などに避難しました。

 

 鶴見橋の東詰めにあったシダレヤナギもかろうじて被爆に耐え、今日まで生き続けています。

鶴見橋とシダレヤナギ
写真は、鶴見橋とシダレヤナギ(2017年1月撮影)

被爆直前の広島と建物疎開
※写真は、米軍撮影、米国国立公文書館所蔵のもの

 上の写真は、米軍が原爆投下前の1945年4月13日に撮影していたもので、当時の広島の街の様子が明らかとなる貴重な写真。とはいえ、この写真は、明らかに原爆による効果を測定する目的で撮影されたものであった。写真上の表示は、東西に防火帯として大々的に設けられた建物疎開帯、被爆当日も市内6カ所で実施されていた建物疎開場所を示した。この東西の防火帯が前後計画された百メートル道路の位置と、ほぼ重なる。

 

は1945年(昭和20年)8月6日 建物疎開作業場所

1.雑魚場町付近(市役所裏)

2.土橋付近(小網町・西新町・堺町)

3.旧県庁付近(水主町・天神町・中島新町・材木町など)

4.鶴見橋・比治山橋付近(鶴見町・昭和町)

5.電信隊付近(皆実町)

6.八丁堀付近



百メートル道路計画と建設過程

 百メートル道路は、当初の復興計画において、広路1比治山庚午線と呼ばれた街路の一部で、全長4.78Kmのうち、鶴見町から福島町の3570mは、その幅員が100mであったことから、百メートル道路と呼ばれるようになりました(平和大通りと名付けられたのは、平和大橋、西平和大橋と同じ昭和26年(1951年)11月のことになります。)。


 広島復興都市計画では、100m幅の道路は平和大通りのほかに、もう1本計画されていましたが、計画の見直しで30m幅の道路になりました。この平和大通りも、計画の初期の段階では、まちの中心部に大きな道路をつくるよりも、幅をせばめて宅地にした方がよいのではないかという意見もありましたが、平和記念都市広島のシンボルとして、交通のほか、市民の憩いの場、観光、防災面など様々な役割を期待されていたことから、初めの計画どおり100m幅で整備されました。


 また、100m幅の道路は、当初全国の戦災復興都市計画で24本計画されていましたが、結局実現したのは名古屋市の2本(若宮通と久屋大通)と広島市の1本(平和大通り)の3例のみとなっています。このことは、広島がいかに百メートル道路の建設にこだわっていたかを意味しています。

1949年平和大通り
写真は、電柱が林立し、瓦礫の散乱する幅100mの道路用地(1949年春頃撮影)

(※上の写真は、中国新聞社の許諾を得ています。掲載日付1949/2/13「平和大通り」)



平和大通りの緑化と供木運動

 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾が投下されました。緑豊かな市街地も、爆心から半径2km以内では建物や樹木はことごとく焼失し、半径4km以内では家屋の大半が倒壊し、樹木は熱線や爆風により幹を焼かれ枝葉を吹き飛ばされて、緑が完全に失われた灰色の都市となってしまいました。


 原爆による荒廃から立ちあがった広島市は、かつての景観を取り戻すため、焼野原になった市街地に一本でも多くの樹木を持ち込もうと、さまざまな事業に取り組みました。

 

 平和大通りの緑豊かな木々は被爆直後に「75年間は草木も生えない」とも言われた広島の復興と平和の象徴です。

 

■供木運動とは

 平和大通りの整備が始まった頃の広島市は、財政難で思うように木が植えられませんでした。

 そこで、昭和31年(1956年)から翌32年(1957年)にかけて県内の市町村に樹木の提供をお願いしたところ、多くの団体や個人から樹木や苗木が寄せられ、平和大通りをはじめ、公園や道路に植えられました。

 これが、供木運動です。

 

 平和大通りをはじめ、被爆後の広島が緑豊かな美しい街に生まれ変わることができたのは、平和を願う国内外からの支援と街の緑化に取り組んできた人々の努力の結果であり、広島はこれらの記憶と多くの人々への感謝の気持ちを未来へと伝えていきます。

 

1968年平和大通り
木々は時間を確実に刻み込む。不揃いで計画的とはいえないが、懸命に植えた木々が緑を増している。写真は、広島信用金庫本店屋上から西望(1968年6月5日撮影)


広島のシンボルロードへ

 昭和50年(1975年)、広島東洋カープのセントラルリーグ初優勝を祝い、平和大通りで行われた優勝パレードには、西観音町(西区)から田中町(中区)までの2.7キロに約30万人のファンが集まり、沿道一帯は歓喜に包まれました。


 これを契機として、広島市でも全市民的な祭りが欲しいという気運が高まり、昭和52年(1977年)には、「ひろしまフラワーフェスティバル」が初めて開催されました。


 新緑が映える5月3日~5日に開かれる「ひろしまフラワーフェスティバル」は、平和記念式典がある8月6日を中心とする祈りの「静」の式典に対し、生命感あふれる「動」の祭典として今日まで続いています。

 

 フラワーフェスティバルの会場として、さらに、Jリーグサンフレッチェ広島の優勝パレード(2012年、2015年)コースや毎年1月に開催される「ひろしま男子駅伝」のコースともなっている平和大通りは、広島のシンボルロードとして広く認知されています。

 

1975年平和大通り
写真は、青年の面影を残す古葉監督、ミスター赤ヘル山本選手、投手の大黒柱外木場選手。

(※上の写真は、中国新聞社の許諾を得ています。掲載日付1975/10/21「広島東洋カープ優勝パレード」)

2012年サンフレッチェ広島優勝パレード
2012年サンフレッチェ広島優勝パレード